こんにちは。
第2回のべらぼう「吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』」で、あの平賀源内が男色だったと知って驚いた人も多いのではないでしょうか?
エレキテルとか土用の丑の日とか、そういったエピソードが有名ですが、実はこの人、生粋の男色家だったそうです。
このページでは、平賀源内が男色だったという話と、そんな彼が寄稿した吉原細見の序文について、現代風に訳してご紹介します。
平賀源内が男色家であったとされるエピソード
平賀源内が男色家であったのはほぼ間違いのないことですが、彼自身が「私は男色家である」と言っていたわけではありません。しかし、男色家であることを推察させるエピソードがあります。
男色小説『根南志倶佐(ねなしぐさ)』の執筆
源内は『根南志倶佐(ねなしぐさ)』という小説を風来山名義で発表しています。べらぼうの1話で、蔦重が病床の朝顔姉さんに読み聞かせていた本が『根南志倶佐(ねなしぐさ)』です。
この小説は当時の歌舞伎役者である荻野八重桐という女形が溺死した事件をモチーフにしているとされ、今でいうところのボーイズラブ小説でした。ちなみに、荻野八重桐は源内がひいきにしていた役者さんです。
『江戸男色細見』の執筆
江戸時代には、吉原のような女郎が男性客を取る遊郭とは真逆の、男娼が男性客をとる陰間茶屋(かげまちゃや)というものが存在していました。
陰間とは歌舞伎で女形を修行中の少年役者のことを指し、彼らは修行のために男性と性的関係を持っていました。当初は歌舞伎の芝居小屋に併設する形で陰間茶屋が設置されていましたが、次第に陰間茶屋のみが男色茶屋として独立し、女形の役者ではなく男娼が所属するようになります。
源内はこの陰間茶屋を詳しく紹介する『江戸男色細見-菊の園-』や『男色評判記-男色品定-』といった案内書を出しています。
一生独身
平賀源内は生涯独身を貫いています。
彼は讃岐(香川)の白川家に生まれ、父である白石茂左衛門の死後に家督を継いだ際に白川家の先祖が名乗っていた平賀姓に復姓しますが、後に家督を妹婿に譲って芸術や学問の道へと進みます。
幼いころより神童と呼ばれていた源内は様々な分野で学を修め、幕府の役人との関わりも深くなっていきました。べらぼうの中でも侍が源内と会話しているシーンがありますが、当時の江戸ではちょっとした有名人だったわけです。
そんな源内が生涯独身を貫いたのには結婚相手がいなかったわけではなく、そもそも男色家であったからという推察をされるケースが多々あります。
源内が序文を書いた吉原細見とは?
源内が序文を書いた吉原細見とは、吉原遊郭を紹介するガイドブックのような定期刊行物で、遊女の紹介、料金やお店の詳細が記載されていました。
つまり、吉原の女郎と遊びたい男性のためのガイドブックです。
平賀源内が男色であることは当時の江戸でも知られており、そんな源内が遊女遊郭である吉原の紹介本に寄稿したので話題になりました。
蔦重が平賀源内に序文を頼んだ理由
べらぼうでは、平賀源内が序文を書いたとなれば江戸じゅうの評判になるからと描かれていました。
確かに、蔦重が平賀源内に吉原細見の序文を頼んだ時期は、平賀源内もビジネスマンとして、あるいは芸術家として脂の乗り切った時でした。世間の評判もよいので「あの平賀源内が序文を書いたのか」と評判になる可能性はかなり高いといえます。
さらに、源内が男色家であることは当時の江戸では周知の事実だったため、男色家である源内が遊郭の紹介文を書くというのがインパクトのあることだったに違いありません。
平賀源内の序文
女衒、女を見るに法あり。
一に目、二に鼻筋、三に口、四にはえぎわ、ついで肌は歯は…となるそうで、吉原は女をそりゃ念入りに選びます。
とはいえ、牙あるものは角なく、柳の緑には花なく、知恵のあるは醜く、美しいのに馬鹿あり、静かな者は張りがなく、賑やかな者はおきゃんだ。
何もかも揃った女なんて、ま、いない。 それどこか、とんでもねぇのもいやがんだ。
骨太に毛むくじゃら、猪首、獅子鼻、棚尻の虫食栗。
ところがよ!
引け四つ木戸の閉まる頃、これがみな誰かのいい人ってな、摩訶不思議。 世間ってなぁ、まぁ広い。 繁盛繁盛、ああお江戸
NHK「べらぼう」より
よくわからないところもあるので現代風に意訳すると、以下のような感じですかね。
女衒(ぜげん:遊女のスカウト)には独特の基準があるそうで、まず見るのは「目」、次に「鼻筋」、「口元」、「髪の生え際」、そして「肌の質感」や「歯並び」と続くんだとか。とにかく吉原では女性を慎重に、念入りに選んでいる。
とはいえ、完璧な人なんてそうそういないもの。「牙のある獣には角がない」「柳のようにしなやかな人には花がない」「賢い人は美人じゃない」「美人にはちょっとおバカなところがある」「静かな人は地味だし」「賑やかな人は品が足りない」――こんな具合に、みんな一長一短がある。
それどころか、明らかに外れだなぁと思う人もいる。「骨太で毛深い」「首が短い」「鼻が大きい」「お尻が平らで虫食いの栗みたい」みたいな。
ところがだ!
吉原の四つ木戸(遊郭の門)が閉まるころには、そういう女性たちもみんな誰かのお気に入りになっているという。
いやぁ、世の中って広いもんだなぁ。だから今日も吉原は繁盛、繁盛!ああ、これぞ江戸。
まとめ
平賀源内が男色家でありながら「吉原細見」の序文を寄稿した背景には、彼の知識人としての立場や遊郭文化への理解がありました。吉原遊郭が単なる娯楽の場ではなく、芸術と文化の交差点であったことを考えると、彼の寄稿は自然な流れだったと言えるでしょう。