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【べらぼう】唐丸は写楽!?正体は誰?絵師になる?を考察する

こんにちは。

べらぼう、4話にして「むむっ!?」という展開が出てきましたね。唐丸の正体は写楽なのでしょうか。他の絵師も含めて考察します。

絵の才の片鱗を見せた唐丸

駿河屋で、猫が倒した花瓶の下敷きになった礒田湖龍斎の下絵。

水で絵の線がにじみ、使い物にならなくなったその下絵を、唐丸は見事に模写してみせます。下絵を描いた礒田湖龍斎もその仕上がりい満足し、蔦重も「俺が当代一の絵師にしてやる!」と宣言。

しかしその後、唐丸は姿をくらまします。果たして唐丸の正体やいかに・・・。

唐丸と蔦重の年の差は?

蔦重と唐丸が出会ったのは明和九年の大火の時でした。ちなみに明和九年は1772年です。唐丸はこのとき「十くらい」ということですから10歳だと仮定します。となると、唐丸の生年は1762年ですね。

一方の蔦重は1750年生まれですから、明和の大火の時は22歳。つまり唐丸とは12歳差と仮定することができます。

写楽とは?

日本に生まれ育った人なら一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

東洲斎写楽。

江戸時代後期の浮世絵師です。

彼は話題性に富んだ絵師でした。彼が絵師として活動したのはたったの10か月。10年じゃないですよ?10か月、1年未満です。

しかし、その短い期間の間に145点もの絵を描き、初期の作品は日本はもとより世界的にも高い評価を受けています。

にもかかわらず、東洲斎写楽に関しては本名すらわかっていません。

一応、能役者である斎藤十郎兵衛という人が写楽ではないかと言われてはいるものの、確たる資料があるわけではありません。つまり、いつどこで生まれてどんな経歴をたどって絵師になったのか。いや、そもそも絵師だったのか。全く素性が伝わっていないのです。

蔦重と写楽の関係

実は、蔦重と写楽は深い関係にあります。なぜなら、写楽を世に送り出したのが、ほかならぬ蔦重だったからです。

写楽の絵が蔦屋重三郎の手により版行されたのは1794年。この時、蔦重44歳。蔦重は47歳で亡くなりますから、そのわずか3年前のことです。以後、10か月の間に写楽が残した絵はすべて、蔦重が版行しました。

ここで一つ疑問が残ります。

蔦重はいったいどこから写楽を連れてきたのか?そして、なぜ10か月という短期間だったのか。

蔦重と写楽の出会いについては記録が残ってません。とにかく、当時版元として成功を収めていた蔦重が、いきなり無名の絵師を盛んに売り出したということだけです。

10か月で終わってしまった点に唐丸を連想

写楽の絵の版行(=出版すること)が10か月しか続かなかったことに関しては記録があります。

太田南畝という人が自身の著書「浮世絵類考」の中で、「歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む。」と書き残しているのです。

現代風に要約すると、「歌舞伎役者の似顔絵を描いたものの、あまりにも本物そっくりにしようとこだわりすぎたため、かえって不自然な仕上がりになってしまった。その結果、人々に受け入れられることなく、一、二年ほどで廃れてしまった。」ということです。

つまり、写実的に、実物を忠実に描こうとしたのがかえってあだになって当時の人々に受け入れられなかったということなんですね。

なんとなく、べらぼう4話で唐丸が礒田湖龍斎の画を忠実に模写しているさまを連想しませんか?

べらぼうのストーリー的には写楽がすんなり

ここでべらぼうのストーリーを振り返ると、ある日突然蔦重の前から姿を消した唐丸について、蔦重はこう語ります。

「いつか、長の年月を経て、ふらっとここに戻ってくるんだ。蔦重、おいらに描かせておくれよって。」
「そんで俺はあいつを謎の絵師として売り出すんだ。」

長い年月を経てふらっと戻ってくる、絵を描かせろと言う、蔦重が謎の絵師として売り出す。

唐丸を写楽として再登場させるためのセリフにしか思えませんね。

他の絵師はどうか?

蔦重が売り出した絵師は他にもたくさんいます。喜多川歌麿や葛飾北斎、滝沢馬琴など。これらの人が唐丸っていう線はないでしょうか?

葛飾北斎が唐丸?

浮世絵師の代表格ともいえる葛飾北斎。主にかかわったのは初代蔦重ではなく二代目の方という話ですが、初代蔦重が出版した狂歌絵本には葛飾北斎の絵が挿絵として使われています。

では年齢的にどうかというと、葛飾北斎は1760年生まれ。蔦重のちょうど10歳下です。

一方の唐丸は一応1762年と仮定していますが、2年くらいなら誤差の範囲内。

北斎は少年期に貸本屋で働いていたという話もあり、貸本屋を営んでいた蔦重との接点と推測することもできます。

しかも、写楽が活動していた時期、葛飾北斎はどういうわけか空白期で何の作品も残していません。写楽と北斎が同じ版木の裏表を使っていたという話もあります。これはない話ではない!とですね。

喜多川歌麿が唐丸?

喜多川歌麿も江戸時代を代表する浮世絵師です。喜多川というのは蔦重の養家の姓であり、自分に関連する名前を与えるというのは唐丸に通日ところがあり、関係性も深そうです。

しかし。

年齢的にちょっと違いますね。

喜多川歌麿が生まれたのは1753年。ということは、1750年生まれの蔦重と3歳しか違いません。

唐丸の生年は1760年頃ですし、似て非なるものだと思います。

この線はないでしょう。

曲亭(滝沢)馬琴が唐丸?

曲亭馬琴は1767年生まれとされています。この時点で唐丸とはちょっと違いますし、なにより馬琴は蔦重の元で働いていますから、馬琴も唐丸とは無縁でしょう。

ちなみに馬琴は「南総里見八犬伝」の作者。彼は日本で初めて原稿料のみで生計を立てた作家さんなのだそうです。

十返舎一九が唐丸?

十返舎一九は「東海道中膝栗毛」を書いたことから作家という印象が強いですが、絵師でもあります。

生年は1765年。唐丸の生年を1762年と仮定しても3年ほどの差ですかぎりぎり可能性がありますね。

しかし、彼は子供の頃に江戸で武家奉公をしていたという記録が残っていますし、絵師としての才能はあったものの、やはり文才の人であったので彼が唐丸の可能性はないですね。

ちなみが十返舎一九は30歳の頃に蔦重の元に身を寄せていたという記録があります。

蔦唐丸のことも気になる

史実を調べていくと、もう一点気になることがあります。

それは、蔦屋重三郎自身が狂歌師として活動した際に、「蔦唐丸」と名乗っていた点です。

蔦重の本名は「喜多川 柯理( からまる)」といい、べらぼうでもあったように、子供の頃は「からまる」と呼ばれていました。記憶喪失である唐丸はその蔦重の幼名である「からまる」をもらって唐丸と名乗っています。

そして何年か後には、その「唐丸」という名を今度は蔦重が 狂歌師として活動する際の号に使う、というわけです。

このあたり、絶対に絡めてくると思うのですがどうでしょうか?

大した絡みはないのかもしれませんが、ちょっと気になりますね。

まとめ

北斎、歌麿、馬琴、一九...いろいろとみてきましたが、やはり唐丸は写楽の線が濃厚ではないかと思います。

蔦重自身が狂歌師「蔦唐丸」と名乗っていたのが気にはなるところですが、現状の材料からはやはり写楽一択かなというところです。

みなさんはどう思われますか?

 

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