こんにちは。
今回はべらぼうでも話題に上った平賀源内と秩父の関係についてまとめます。
平賀源内と秩父
べらぼうに登場する平賀源内は文筆家としての側面がクローズアップされていますが、彼は文筆業以外にも様々なことにチャレンジしています。秩父に関しては源内が鉱山開発に関する知識を勉強している関係から特につながりが深い地域として記録に残っているようです。
当時、豊富な鉱物資源に恵まれていたとされる秩父に残されている源内の足跡についてまとめます。
秩父での鉱山開発と山師源内の誕生
平賀源内が秩父の山に関心を持つことになったきっかけは、秩父中津川の山中で石綿(アスベスト)を発見したからと考えられます。1764年、宝暦14年のことです。
本草学や鉱物学に関する勉学をしていた源内は石綿の持つ耐火性が十分実用的であるということを知っており、秩父で発見した石綿を使って「火浣布(耐火布)」を製作します。日本初のことです。
この火浣布(かかんふ)は江戸幕府にも献上されましたが、実用化には技術的に困難が伴い、大きく普及することはありませんでした。
しかし、石綿の発見が契機となったのか、源内はその後秩父で金山開発や鉄山開発に乗り出します。べらぼうの中で「鉄は出る。鉄も掘っておいて損はございません」などと語っている下りが時代的に該当します。
しかし、金は思ったほど採掘することができずに頓挫、鉄は精錬ができずに頓挫してしまいます。2度の鉱山開発が幕府を巻き込んだ上に頓挫したことから、ペテン師という蔑称の意味合いも込められた山師と呼ばれるようになっていきます。
しかし、源内が秩父地方に残した鉱山開発の技術や知識は地域の発展に大きく寄与しました。
源内居と秩父での活動
源内は秩父中津川の山中に「源内居(げんないきょ)」と呼ばれる建物を建てています。
源内居は彼が鉱山調査と開発、また執筆活動の拠点とした場所であり、今も秩父市中津川に現存しています。
この建物は源内自身が設計に携わったとされ、精巧な建築技術がほどこされています。まさに源内の設計思想や当時の職人さんたちの腕前が垣間見れる貴重な建物になっています。
源内はここを拠点に鉱山開発に乗り出しただけでなく、執筆活動にも力を注ぎました。ここで執筆された作品が人形浄瑠璃や歌舞伎の演目ともなっている「神霊矢口の渡し」です。ペンネームは福内鬼外。そう、あの吉原細見の序文を書いたペンネームと同じですね。
現在、この源内居は秩父市の指定有形文化財に指定されており、平賀源内と秩父市との関係をうかがい知る貴重な遺産として保存されています。原則非公開なので内部を見ることは難しいですが、ネットを調べると公開時の写真などを見ることができます。
まとめ
平賀源内は発明家や本草学者として知られる一方で、当時は山師としても名を馳せました。そして彼の山師としての実績は秩父地方での石綿発見~火浣布製造に端を発していると言えるかもしれません。
彼の山師としての挑戦は失敗も多く、当時の人からペテン師的な嘲笑を受けたりもしましたが、鉱山開発の技術や知見を秩父地方にもたらした功績は大きく、秩父では今も秩父の歴史の重要な1ページとして語り継がれています。